▽「ほろびのうた」
「あの、お願いがあるんですけど……聞いてくれますか?」
お帰りはあちら、と示そうとした時、彼女がキラキラとした目で切り出してきた。
隣でジプソが、軽く笑う。それはそうだろう。ジプソが笑っていなければカラスバが吹き出していたところだ。
「へえ、オレらサビ組に『お願い』か」
「ダメですか?」
「いや? せやけどなあ……」
ガイがサビ組を頼ってしまったがために、ここへ呼び出され、すわポケモン大会だと脅され、サビ組の「お仕事」を手伝う契約を交わしたのは……ほんの数分前のことだ。
にもかかわらずこの子は、自分がどうしてこんなところへ来る羽目になったのかをすっかり忘れたような口ぶりで、ガイと同じ過ちを繰り返そうとしている。いや、忘れたような、というか、本当に忘れているのかもしれない。でなければサビ組に面と向かって「お願い」など、できるものか。
いや待て、そもそも……へらっとした顔で笑っているこの子にとっては、サビ組にコキ使われることなど、恐ろしいことでも何でもない、ということなのか?
「……」
おい、頼むからよう言い聞かせておいてくれ。オレらは「危ない」組織なんやで。
そういう意味合いを込めて、デウロをチラと睨む。彼女はすぐにカラスバの視線を汲み……しかし直後、苦い顔をしてゆったりと首を振った。「あたしじゃ手に負えません」と、その目は雄弁に語っている。成る程、この子も相当に苦労させられてきたようだ。この、破天荒なDランカーに。
ああそうだった。この子はもうカラスバと同じランクまで来ているのだった。この子が。こんな子が。
「なんか、頭痛なってきたわ……」
「え! 大丈夫ですか?」
「元凶に言われるんってこういう気持ちかぁ。そうかそうか」
「ちょっと! 一旦黙って! カラスバさんをこれ以上不機嫌にさせちゃダメ!」
「むぐ」
デウロのファインプレーにより作られた沈黙で、カラスバは多少落ち着くことができた。
まあいい。サビ組の関与の必要がない、善良な人間であったとしても、先程の契約に加え、さらに何らかの「お仕事」をしてくれるというのなら、遠慮なく使うまでだ。
この子が……役に立てば、の話だが。
「そんで? お願いっちゅうんは」
「刀をもう少し近くで見てもいいですか!」
彼女は勢いよく立ち上がり、カラスバとジプソの間にすっと腕を伸ばした。手の平を上にして上品に指し示すのは、カラスバのデスクの横に飾られている、刀。
この事務所には、あちこちに物珍しいものを置いているという自負がある。とくに目立つところに飾ってあるそれが視線を集めるのは、カラスバとしても、まあ、悪い気分のするものではない。
それに、それくらいなら「お仕事」を求めるまでもなく叶えてやれる。
「へえ、お目が高いなあお嬢さん」
「えへへ、ほんとですか?」
「見るだけならええよ、好きなだけどうぞ」
「わぁい! ありがとうございます!」
デウロの「お願いだから気を付けてね」という震え声に「うん!」と力強く返事をしてから、彼女はスキップするように刀の前まで駆けた。上半身をくねくねと曲げつつ、台座の周りをゆっくりと歩きつつ、あらゆる角度から刀を堪能しているらしい。
刀や畳といったこの事務所内の装飾は、ミアレの外……カントー地方とかジョウト地方とかの文化に由来するものだ。ただそこにカラスバが「独自の解釈」を加えている以上、誰の肌にもおいそれと合いはしないだろう、と思っていたのだが。
カラスバのお気に入りのひとつに、キラキラした目が向けられているというのは、まあ、それなりに気分がいいものである。まさかこんな子に、この装飾の良さが分かるとは思いもしなかった。
「かっこいいですよねぇ! ハラキリにはもってこいです」
「なんて?」
訂正。どうやらガキの空想上のおもちゃにされていただけだったらしい。
「これでハラを斬って死ぬのって、当時の方にとってはとっても名誉なことだったんでしょう? 命よりも名誉が大事なんて、ものすごい価値観ですよねぇ! くぅー! 痺れるぅ!」
「オマエ名誉とかいう言葉知ってるんやな」
「ふふん、当然です!」
得意気に胸を張ってから、彼女は刀の上にそっと両手をかざした。「見るだけなら」というカラスバの言葉を忠実に守り……決して、鞘に触れることはしなかったが。
かっこいいなぁ、と笑顔で刀を眺めていた彼女だが、しばらくのち、さも名案を思い付いた、というように手を胸元で合わせた。ぺち、という情けない音に続いて、こんな言葉が飛び出す。
「わたしがどうしようもない生き恥を晒したら、この刀でハラキリさせてもらおうっと!」
「はあ?」
カラスバは思わず立ち上がった。彼女もこのタイミングでカラスバが勢いよく動くとは思わなかったのだろう。目を丸くして、振り返った。
ライトグレーの大きな瞳だ。水に濡らしたビー玉のようなキラキラとした輝きだ。先程のような、鉛色の濁った目でそんなことを言っているわけではなかった。人が変わったような表情をしているわけではなかった。これまで通りの彼女だった。
つまり今のは、彼女の心からの言葉、ということだ。
「っ……アカンアカン! 組の人間でもない奴においそれと振らせるかいな」
「え! サビ組だったらいいんですかぁ!」
「そんな理由での組入りは認めへんで! ほら、もう帰りよし。仕事が決まったらまた連絡するさかい」
ヒラヒラと手を振って彼女たちを追い払う素振りを示しながら、カラスバは小さく笑った。
馬鹿げている。なぜ先程、狼狽えた? この子にそんな度胸などあるはずもないのに。
そもそも、この子の語るハラキリにはあらゆる誤解がある。人間の体というのは意外と頑丈なのだ。腹だけで呆気なく死ねるはずもない。そのため、昔の切腹には、当事者を少しでも早く楽にしてやるために、首を落とす……「介錯」をする者が後ろにつくのが一般的だ。腹をひと思いに刺しただけですぐ生命活動を諦めてしまえるほど、命というものは潔くない。
第一、こんな長い刀を自分の腹に刺せるはずもなかろう。ハラキリに使われるのはもっと小さな刀だ。向こうの名称では脇差、とか、短刀、とか言うらしいが。
彼女は「刀」のぼんやりとしたイメージに憧れ、そのイメージのままにハラキリを語っているだけだ。空想ばかりが上手で、現実を十分に分析できていない、ガキの発想。取るに足らない夢物語。
だが、彼女がハラキリなどするはずがない、と結論付けても尚、カラスバには別の驚きが残る。
『わたしがどうしようもない生き恥を晒したら』
ハラキリ、はこの子にとって間違いなくファンタジーだ。けれども生き恥、は……この子の現実に根付いた、輪郭のはっきりしたものであるように聞こえた。
泣く子も黙るサビ組事務所の、ボスとその右腕の前でさえ、へらへらと笑えてしまうこの子。わあわあぴいぴいと人目を憚らず泣けてしまうこの子。そんな子に「恥」の概念が宿っていることは、カラスバをひどく驚かせた。
カラスバの基準で言うならば、メリープの静電気を浴びてひっくり返っているところを見られる……あれこそ、恥以外の何物でもなかろうと思ってしまう。似た状況として、たとえばカラスバがイトマルの糸にグルグル巻きにされた状態で四番ワイルドゾーンに転がされていたら、それを誰かに見られてしまったとしたら……それは確かに生き恥だろうと思える。衝動的に「ハラキリ」の選択肢が頭に入ってきてしまう程度には、もう揺るがぬ、恥である。
しかし彼女にとってあんなものは日常茶飯事、恥にはカウントされないらしいのだ。
では彼女は、何を恥じるのだろう。この子の「生き恥」とは、何だろう。
メリープの静電気でひっくり返ることでも、カラスバのちょっとしたからかいでわあわあぴいぴいと泣くことでもないのなら。
「カラスバさん、ジプソさん、お邪魔しましたぁ!」
「し、失礼します!」
緊張した面持ちで小さく頭を下げるデウロと、同じくぺこっと拙い会釈の後にヒラヒラと手を振って笑うあの子。
エレベーターの扉が閉まるのと、カラスバとジプソの両方から大きな溜め息が落ちたのとが同時だった。